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橋本努講義「経済思想」小レポート2004 no.1.

毎回講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

最初にご紹介するのは、留学生、韓氷(カン ヒョウ)さんの小レポートです。レポート作成の目安として、参考にしてください。

 

 

 

ジャン・ボードリヤール 「消費社会の神話と構造」

宮本ゼミ 経済学科 17020011 韓氷(カン ヒョウ)

 プリントを見た上で、ひとつの例を考え出した。今、みんなの服でも、何でも、身近にあるものを見てよう。たとえば、私が今着たコートは日本製、ズボンは中国製、靴はイタリア製、その中でも、服、ズボンの繊維、靴の皮は全部違うところから生産されたものである。その何カ国に直接に行かなくても、身に着けられるのがなぜという問題はみんな考えたことがあるか。

 私たちが毎日商品している生産物は単にひとつの国によって独自に生産されるものが少ないと思う。生産優位とか効率を追求するため、組織化による商品物の生産は今生産界では当たり前のことになっているだろう。ネットワークと呼ばれるこの一系列の活動は細かく二種類に分けられる。水平ネットワークと垂直ネットワークである。水平連合は簡単に言うと、組織間の連合。垂直連合は部門間の連合だ。消費者は買い物するとき、その背後の連合組織を考えることは少ないじゃないか。つまりイメージの消費にたどり着く生産の長い社会的過程を、消費者の意識から消し去ってしまったのだ。

 人間は生きていく上で、消費しなければならない。しかし、経済の発展によって、過去で手にいれがたい衣食住を今で簡単に得られる人々は生きる上だけでの消費も満足できなくなっただろう。しかし、ここでプリントには「消費が万人のものとなったときには、それはもはや何の意味ももたなくなる」と思わない。帰って、元の生きていくために、消費するのは、他の人と競争しようとする消費に変わると思う。人はよく自分の消費レベルが自分より一層上の人のレベルに合わせるように設定する傾向がある。ここで、衣食住だけの比較もう彼たちの競争心に満たさなくなってきた。その以外での比較もほしいので、レジャーでの消費に人々は食い込んだ。多分ここから、豊かさ=浪費になって来たではないだろうか。生きるための消費ではなく、他人との比較の消費は浪費の源になる。ここで、プレンと中の資本主義的システムの進歩を取り入れようと思う。「資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐徐に生産形態、つまり、(1)経済利潤、(2)社会的特権への源泉へと変質することなのである。」資本主義の利益の追求もこのような人々の浪費を喜んでいるから、浪費は無くすことできないと思う。

 その他に、福祉の平等主義的イデオロギーも見てみよう。「平等主義の神話の担い手となるには、幸福は計算可能なものでなければならない。幸福は、ものと記号によって計量することのできる福利、物質的安楽でなければならない。」が、現実ではありえないことである。ここで一応計算することにしよう。幸福=物質の獲得×精神上の獲得。物質上の幸福が比較できるとしても、精神上の幸福に数値を与えることは難しいだろう。だから、人によって、すべて得られる幸福も違う。「すべての人間は欲求と充足の前で平等である。すべての人間は者と財の使用価値の前で平等だからというわけである。欲求は使用価値に応じて定められるのだから。」といっても、平等の幸福を得られるとしても、一人一人の幸福は違うから、等しい幸福が得られないから、平等といえるだろうか。すべての人は平等な幸福を得たら、自分は不幸だ、それとも幸福だという人はいなくなるではないだろうか。同じ幸福を獲得できたら、比較の標準でなくなるから、人間は比較によって消費し、比較によって幸福の判断をするのも理解できないことではないと思う。だから、現実の社会でまだ不幸と幸福の言葉が存在する以上に、平等な幸福がありえないと思う。

 

ハバーマス 『公共性の構造転換』

宮本ゼミ 経済学科 17020011 韓氷(カン ヒョウ)

 「公共性」は「私的」に対立して、ひとつの生活圏という形で現れる。ひとつの生活圏はカテゴリーによって、大きく、小さく分けることができる。例えば、大きく決めれば、地球全体はひとつの生活圏という定義ができるし、小さく決めれば、一族という生活圏もありえる。しかし、現在世界的に見れば、アメリカ、日本、フランスみたいに、国毎がよくひとつの生活圏として使われている。だから、ここで、生活圏を以下のように、定義できる。ある範囲で、共通の言語、歴史、習慣を持ち合う一民族だ。

 ハバーマスの「公共性の構造転換」の中で、“貴族的公共性”と“市民的公共性”の構造転換が述べられていた。“貴族的公共性”は先に出現し、「自分の支配権、すなわち、自分の領主権を具現するものではなく、専制国王の威光の顕示に奉仕する。」というために作られた。その後、「「民衆広場」が発展し、公権力の正当性の証しを求めるため、公論する公衆が成立する」によって、“市民的公共性”は誕生した。しかし、市民的公共性は貴族的公共性より、脆いという性質がある。歴史に遡って、その理由を説明しようと思う。原始時代まで遡って、あの時、すでに自族と他族の分け目があり、一族の内部でも、支配者である家父と被支配者である族人が存在した。族人は家父の命令に従って働き、収穫物は家父によって配給される。もちろん、家父は一番多くの収穫物を有した。このように、上部構造である家父と下部構造である族人の分け目が時代とともに、だんだんはっきり現れるようになった。皇帝と庶民という階級制にたどり着いた。この時代は主に皇帝、大臣、貴族という裕福の階級は公共性を持つのが一般であった。自分自身の階級を永続に保っていくためにも、上部構造に居する支配者たちは公共性を統合したがっただろう。

 そのときの市民といえば、生活していくための最低商品が供給されるならば、あまり他の市民と何の関わりを持ちたいと思わなかっただろう。これも下部構造は上部構造と違って教育、学習をすることなく、思想上の境界はまだ“公共性”の範囲に達していなかったと思う。しかし、だんだん彼らの中に、少数の教育者、医師、牧師が出てきたにつれて、市民にも権利をもらえる、そして自分の権利を守るため、もっと上部構造と同じ平等な待遇を得るため、“公共性”に関心を持つようになった。だから、そういう知識がある市民の増加によって、“民衆広場”が出てきたと思う。そして、市民は“公共性”を有するようになった。

 しかし、多くの知識層の出現によって市民の公共性は崩壊する傾向も出てきた。「公衆は公共性なしに論議する専門家たちからなる少数派と公共的に受容する一方の消費者たちの大衆への分裂し、こうしてそもそも公衆として特有のコミュニケーション形態を喪失する。」知識層の増大は市民に知識、先進な考えを与えたが、「競争する利害の示威的行動も現れ、非公共的戦いもとられた。」なぜそこまで変化してきたか、プリントの中で説明していなかったが、私の思うには、それらの知識層は市民の中で優れた人たちとして尊敬されたため、市民と知識層の間にも階級が出現し、コミュニケーションはだんだん噛み合わなくなったじゃないかと思う。だから、時間につれて、知識層によってもたらす“市民の公共性”は彼らの市民からの脱落によって、消え去っていった。以上によって、上部構造は下部構造よりもっと固い構造だと思うようになった。

 それに、もっと時代の変わりにつれて、各階層の中でリアリティへの認識を膨らんできて、私生活圏が出現するのも歴史の帰着ではないだろうか。

 

ハンナ・アレント 『人間の条件』

経済学部経済学科 17020011 韓氷

 人間がどういう生き物かを定義するのは一言で難しいと思うが、私的意見だが、人間は生まれつきの自己中心という特徴があり、しかも、自分自身を存続させるために、周囲のすべてのものを利用するという条件付けられた存在だ。

 まず、なぜ人間は自己中心だと思ったことを説明しよう。一人一人はもちろん生まれた時から、お父さんとお母さんがいて、その意味では、孤立する存在ではないが、全体の意味から言うと、一家族、一地域、一国家、こちらのカテゴリーがあるのが個人個人は他人と違う存在であり、あるいは自分の「リアリテイ」を表現する意欲がある。そういう意味で、「私的領域」という言葉が出てきたかもしれない。しかし、人間は生きていくために、労働をしなければならない。自分生産するものは自分で食べる、他人を頼らない生活も可能であるが、よくいい生活、いい消費を得られるため、大体の人たちは集団で労働していく傾向がある。この時から初めて、公的領域という言葉が生まれた。しかし、一見して、公的領域は私的領域より精神思想いっそう高まったように見えるが、あくまでも、人間は自分自身に他人と区別できる場所がほしいという意欲によって、作った領域に過ぎない。このようにこの二つの領域はほとんど自我のための産物と理解してもいいだろう。これらの二つに対して、社会的領域という言葉もある。この領域の中で、人々の成果より人類の進歩が強調される。この一国家の範囲とする領域は共通世界と呼んでもいいだろう。

 上のように、私は人類が私的領域、公的領域、社会的領域の経路を辿ってきたと認識しているが。多分、その逆だと考えている人もいると思うかもしれないが、今まで述べてきたことだけを見たら、確かに人間は生まれ集団的であり、生活条件に豊かにつれて、だんだん「私的」思想が出てきたことも可能であるが、しかし、労働過程から分析すると、その違いがわかる。人間社会の歴史を見てみると、確かに個人労働から、協業、そして分業という順序をしてきたと覚えた。このように、個人から発し、集団を経て、個人へとたどり帰れるのは私的領域、公的領域・・の順しかない。

 もうひとつ説明したいことはなぜ私の個人は公的領域に踏み入りしたことだ。一つの理由は協業によって多くの消費品を享受できる。もうひとつしかも、一番の理由は共同労働が個人もはや個人ではなく、実際にほかのすべての人たちとひとつになっていると感じるようになる。このおかげで、労働の苦労と困難はやわらげられることである。

 労働といえば、スミスとマルクスが、非生産的労働は寄生的なものであり、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称にはまったく価値がないとして軽蔑したということも呼んだが、これらの経済史上名を残る人たちは自分のやっている非生産的労働が実際に軽蔑だということを知ったらびっくりした。しかし、考えてみるとその時代は生産労働を重要していることがあり、この時代はこの考えを生み出しているかもしれない。今の時代から言うと、もしや、非生産労働を歓迎している。知識的労働は純粋の体力労働はもっと人々にいい生活を提供できるからだ。そういう意味で最終的に人間はやはり今の自分に一番いい生活をもたらすものを強調し、その人間の自己性はここで表したではないだろうか。

 

宮本ゼミ 経済学部経済学科三年 17020011 韓氷(カン ヒョウ)

マルクーゼ 『エロスの文明』

 本文は文明が抑圧を必要して、快楽の束縛と強制的・禁欲的な労働によって、文明の基礎を築いたと言いたいと思う。確かに、マルクーゼの生きている時代は支配者がいるのが通常なことであり、被支配者が支配者の命令のままに労働し、彼らの文明は支配者の好んだ文明に沿って築かれることが多かっただろう。しかし、今の時代を見れば、抑圧が進歩の前提だと思わない。

 現在の各国の状況を見ていると、少数の社会主義があるが、多数はやはり資本主義だ。経済発展を向上させるため、大体の資本国家は自由式経済をとることが多い。自由は抑圧に明らかに反しているが、各国の経済は高い発展率を遂げるままであった。私が思うには、やはり、自由が進歩の前提だと思う。

 二つの例を比べたら、わかってもらえると思う。ひとつは社会主義、もうひとつは資本主義である。社会主義は抑圧主義であると言えないが、計画経済をとらえる以上、政府の政策のままにしか生産、消費できないから、資本国家より、一点の抑圧度があると認めてもいいだろう。だから、進歩の前提は何であろうと知るために、この二種類の国の経済レベルを比べたらいい。資本主義国は社会主義にはるかに超えている。なぜそういう結果になったのかうまく説明できないが、私的な意見では、資本主義が利潤の最大性を目標として動いているから、利潤追求するため、必ず消費者側のニーズに応じて、生産しなければならない、消費者のニーズに応じて、発明しなければならない。そのように、資本主義は消費者および社会の必要のものしか生産しないといってもいいだろう。そして、市場価格は需要と供給によって均衡され、社会は安定を保たれる。その一方、社会主義は計画経済を重視、政府によって消費者の消費物を決められている、しかし、一国政府が何十億の国民のニーズを完全把握できると当然思わない。だから、非必要品を生産される可能性が高くなるケースは多い。そして,ここで一番重要なのは、抑圧は自由を恐れているから,自分の抑圧できる範囲内を封じる傾向がある。中国やロシアは昔鎖国することがあり,今の北朝鮮はまだ鎖国のままである。それによって,一国が孤立されるまま,自給自足経済になるしかない。自由貿易はともかく,他国からの優れた消費品も享受できないなら,どこが進歩だといえるだろうか。

 ここで,私として,自由を提唱しているが,抑圧は必ずしも必要ではないということではない。一定の抑圧は自由を支え,進歩を安定させる役割も時にありえるからだ。このことは今の資本主義に対応して言うと、自由経済を主にして、政府は市場失敗時に補佐役として登場する。このことで、マルクーゼの「文明=抑圧説」をつかって、説明できると思う。「人間の基本的な能力は自然の目標を追求するのに任せておけば、すべての永続的な結合と維持に反するだけではなく、統一を破壊してしまう。」資本家の利潤過剰追求は時に、市場不均衡をもたらすこともあるから、政府はこういうとき抑圧手段として、市場調整をしたらもっと自由市場はスムーズにいけると思う。

 上に述べたように、自由は抑圧よりもっと進歩にあわせていると思うが、時々、安定を保つには、抑圧も必要だと思う。

 

 

ローマーの教育格差是正措置に関して

文学部 四年 05010157 西條玲奈

 分析的マルクス主義の思想と題した例の中でローマーによる教育格差の是正措置について所見を述べたい。

 私は基本的に教育格差の是正措置をとることに賛成である。主な理由は、人種・階層毎の定員枠を設けることにより教育格差が是正されれば各社会階層の硬直化をやわらげることにつながると期待できるからだ。そうなれば、社会の一個人が生まれた環境にのみ繋縛されることなく自らの人生を決定する状況を整えることができるであろう。私はこの場合自己決定権が万人に対して公正なかたちで認められる事態を最善とみなしている。それゆえ、是正措置に賛成の立場を示すものである。

 以上が私の基本姿勢であるが、いくつかより厳密に考えるべき点について検討してみたい。まず、定員枠は学生全体の少数、たとえば仮に五%程度にとどめ、多くは達成度に準じた通常の選抜を行うべきであろう。ローマーに準じ苦痛度に従い黒人に定員枠を設け、その分合格基準に達した知識層の学生を減らす方針には賛成である。また階層間の流動性を支持する私の見解であれば大幅な定員枠を増やした方が効率的ではないかという批判もありうるかもしれない。だが、例えば黒人枠を極端に拡大してしまえば、本来自分の能力にふさわしい教育を受ける権利をもつ白人や知識層に対して選択の自由を侵害し、家庭環境に彼らを繋縛してしまうことになる。また達成度の低い学生は入学後学業についていくのに苦労することが予想され、ただ退学者を増やすだけにならないかという懸念もある。またここで当然アジア系に定員枠を設けるか否かという問題が生じるだろう。所得水準は低いが、苦痛度、達成度ともに高い値が出ている。結論からいえば、私は設ける必要はないと考える。なぜなら私が基準にしているのは所得ではなく家庭環境から生じる教育の苦痛度と達成度のバランスであり、その差がゼロであるアジア系には措置が必要はないと思うからである。

ただし、仙人層(アーミッシュ)に関しては留保が必要だと考える。なぜなら彼らのケースは信教の自由と教育を受ける権利という二つの基本的人権に関わるからだ。義務教育についても私はある程度譲歩してよいと考える。親の属する共同体が唯一のものではなく他の選択肢があることを知る権利が子供にあることから義務教育を全面的に受けさせるという議論もあるかもしれない。しかしそれはマジョリティである人々の子供が親の属する共同体を相対化するような立場から義務教育を受けさせることに一定の問題が生じることと基本的には同義であると考える。議論が脇道にそれるのでこれ以上深入りはしない。だが大学教育についてはこれを受ける段階で、それが望ましいか否かを自ら決定するに十分な年齢に達していると思われる。彼らが自らの信念に基づいて入学を望まないのであれば、定員枠を設けて強制的に入学させることは教育の権利の名を借りた自律性の侵害である。

 補足として、そもそも教育格差の是正がなぜ必要なのか別の視線からもう一度簡単に触れておきたい。もっとも普遍的な教育の頂点に大学が位置するのであれば、この教育機関を卒業した否かで将来の生活、具体的には収入が決定する。教育格差を是正することの要請はそうした経済的な側面が否応なく付されている。そうした点で周辺的である芸術やスポーツの分野にまで是正措置が行われる必要はとりないだろう。

 

 

0518 マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

『ドイツ・イデオロギー』における理論的基礎付けの不充分とその展望

文学部 四年 05010157 西條玲奈

 ここでの私の目的は、もっぱらエンゲルスとマルクスの共著『ドイツ・イデオロギー』において提示される上部構造と下部構造さらにそれを前提とした展開に対する批判と、これらの概念の妥当性を検討することである。無論今回の講義に即せばこの著作の眼目が共産主義の素描であることは疑い得ない。だが私の関心は前述の通りなので、最後に純然たる感想を簡単に述べることで主題への応答とすることをお許し願いたい。

 まずは、エンゲルスとマルクスが述べるところの上部構造−下部構造からの変革を経て自律性を獲得する、というプロセスそれ自身に不整合が含まれてはいないかということを検討したい。曰く、諸個人の何たるかはその生産と一致する。ゆえに諸個人は生産の物質的条件に依存するという。さらに社会においては観念や思想、また政治や法などの意識の諸形態(=上部構造)は、生産関係の物質的条件(=下部構造)によって規定されているという。これを前提にエンゲルスとマルクスは意識諸形態がもはや自律性を持つことはできないと主張する。彼らは下部構造に規定された諸意識(イデオロギー)を糾弾し、かかる事態の変革を下部構造にコミットする労働者が変革をなすべきだと主張するのである。さて、ここで主張される変革のプロセスというマルクスとエンゲルスの思考も彼らの前提に従えば、その時点での下部構造によって規定されていることになる。下部構造によって規定された変革が成就する自律性とは彼らが求めるところのものなのであろうか。私自身は自律性に価値を見出すという態度にあまりシンパシーを抱いてはいないが、彼らの価値の前提が下部構造からの規定を免れた「思考活動と思考の所産」の自律性をよしとすることであるならば、自律獲得のプロセスはその前提ゆえに破綻していると言えよう。あるいは、下部構造に規定されていることを認めてもなお上部構造の自律性を獲得できるという立場もありえるだろう。しかしこの立場を認めるとなると、今度は下部構造が上部構造を規定するという前提を放棄しなくてはならずやはり不整合を起こすことになろう。

 ここで「下部構造が上部構造を決定する」という命題を改めて検討してみたい。上述のとおりマルクスらの革命理論は理論的基礎付けが不十分であると言わざるをえないが、この着想自体は評価できるものだと考える。カルチュラル・スタディーズやマルクス主義文学批評がこの着想に依拠していることは言う間でもないが、人間存在が規定的であるという主張は大変示唆的なものと思う。ただし、上部構造に自律性を認めなければこれらの概念が不整合に陥ると私は考える。なぜなら、もし上部構造の一切が下部構造に規定されるとするならそれは上部構造が下部構造に還元可能だということであり、言い換えれば上部構造は下部構造によって説明しつくせるということになる。とすればそもそも上部構造と下部構造の区別それ自体が無効のものになるのではないか。あるいは下部構造に還元可能な上部構造を上部構造と呼ぶ意義がないと言ってもよい。こうした不整合を防ぐためにも、上部構造の自律性を予め確保することが妥当であると思われる。

 それでは、最後に共産主義に対する意識調査への私の回答を述べることにしよう。まず私は財産の不平等を解消しようとする点で共産主義に肯定的である。ただし、私的所有を全面的に禁ずることは個人に不正を犯すことになるから、程度の問題ということになるだろうが。反対に分業の廃止については否定的である。というより非現実的であると考える。各人は特定の範囲に限定された労働状況にあらざるをえないのではなかろうか。むしろここでは自己を十全に発揮するにはどうすればよいか、という問題に置換すべきと思う。この問いへの返答がただちに分業の廃止である必要はない。また共産主義がたえまなき「変革のプロセス」であるということは停滞を忌避する性格として私は理解する。これはさらに社会の「意識的支配」という点と関連づければ理解しやすい。偶然性にさらされた自然成長的社会の不透明性を排するために意識的支配が帰結するというが、不断の運動である以上意識的支配の試みも常に連続的であることになる。諸個人が社会に偶然的に「ふりまわされる」のではなく主体であるためには、意識的支配の試みが必要であるという理念には共感する。ただし、実践的な面においては様々な課題があるだろう。以上が私の回答である。

 

 

0521マルクス『経済学・哲学草稿』

『経済学・哲学草稿』における類的存在の概念について

文学部 四年 05010157 西條玲奈

 私はマルクスの『経済学・哲学草稿』(以下『経哲草稿』)における疎外論を焦点に定め、特に類的存在という概念を検討したい。これについては、この講義内容とレジュメに加え文学部の高幤秀知教授による講義も参考にしていることを付言しておく。

 マルクスの類的存在という概念は先人のそれと比して独特であり、人間理解として興味深い。一見して一つの理想的で静的な「自然状態」を提示しているようにも思われるが、マルクスはあるダイナミズムをもった概念として類的存在をとらえていると私は考える。以下これについて詳述していくことにしよう。

 そもそも類という概念は、おそらくフォイエルバッハに依拠したものでもあろう。マルクスはフォイエルバッハよりも具体的で実践的な本質として類を考えるが、一見すると観念的な概念として類的存在を考えているようにも思われる。フォイエルバッハが『キリスト教の本質』の中で、個人は意識することができるがしかし個人を超越している正義や愛といった意識を「類的本質」としてとらえるほどに観念的ではないにせよ、である。ちなみにマルクスの類的存在もフォイエルバッハの類的本質も原語では同じGattungswesenであるが、とりあえず訳語は城塚訳に準ずる。

 『経哲草稿』のマルクスは類としての人間を、「人間が自己自身に対して一つの普遍な(…)存在に対するようにふるまう」と記述する。そして類から疎外された人間は、「自然を疎外し」「自己自身(…)人間の生命活動を疎外」し、また「人間の精神的な類的能力を個人的生存の手段としてしまう」と言う。では、逆に疎外が起きていないのであれば、自然との「不断の交流過程」にあり、生命活動は「単に肉体的生存を保持」しようとするためのものでなく、精神的な類的能力を生存の手段としないはずである。「疎外の止揚は共産主義を通じてのみ貫徹される」と述べるように、マルクスは、個人とここで確認された類的存在との一致が人間の十全性を発揮した望ましいものとしてとらえているように思われる。つまり、資本主義社会にあっては「私有財産」と「分業」によって生じる疎外に媒介されているが、類を本来そうであるところの理念的な人間の姿としてとらえていると思われるのである。

 だがこうした理解では、当然ながら類的存在のもつダイナミズムは見えてこない。ここで手がかりとなるのが「対象的世界の実践的な産出」というマルクスの表現である。これがどういうことであるか、マルクスの論を追ってよう。マルクスによれば、人間が肉体的欲求から自由な中での生産、すなわち類的存在の確証、によって、はじめて「自然は人間の制作物および人間の現実性として現れる。」ここで労働の対象は、自由な生産という人間の類生活の対象となる。なぜなら人間は「意識の中で知的に自己を二重化するだけでなく、制作活動的、現実的にも自己を二重化する」からであり、したがって「人間は彼によって創造された世界のなかで自己を直観している」からである。
 これに従えば、類的存在とは一つの理想的な静的状態ではないことになる。なぜなら、類生活とは対象世界の産出であり、したがって世界は不断に変化するからである。世界は人間の制作活動つまりは「創造」によって変化するが、その中に人間は「自己を直観する」のであって、直観の対象となる二重化した自己もまた不断に変化するからである。こうして生産活動を通じて世界あるいは自然と人間の、また人間自身の確定されざる運動のありようを、マルクスは「対象的世界の実践的な産出」と表現する。このような類生活が類的存在の確証であるということは、類的存在、むしろ類的本質という訳語の方が適当かもしれないが、これがまさしく産出のダイナミズムを表現しているということになるのではないだろうか。

 このような理解に従うならば、マルクスの語る世界と自己は常に運動としてとらえられ、ある固定した対象としてはとらえられないことになろう。私は、マルクスが、共産主義によって疎外が止揚されるという発想には納得できない、というよりも率直に言って理解できないでいるが、ここで読み進めて来た「類的存在」のように興味深い概念を提示しているとも思う。

 

 

0601 ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
ウェーバーの社会学的アプローチについて

文学部 四年 05010157 西條玲奈

 私の目的は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるウェーバーのアプローチを検討することである。私自身は、ウェーバーの議論は鋭いものだと思うが、しかし不十分であると考える。そしてそれは社会構築(構成)主義によって補われていると思う。そうした所感を、ここでは簡単にスケッチしておこうと思う。

 ウェーバーの議論を要約すれば、プロテスタンティズムにおいては労働が神から与えられた天職とみなされ、この天職という概念が資本主義における正当な利潤の合理的追求という心情と親和性を持っていた、ということであろう。プロテスタンティズムにはカトリシズムと比して聖書を中心に据え儀礼を忌避するという特徴があるが、カルヴァン派ではさらに救済される者とされない者はあらかじめ決定されているという予定説も加わって、信徒は自分の救済について確信を得られなくなる。救済の確信は、正しい行状と行為が神の恩恵である信仰から生まれたものとみなされることに存し、ここから生活全般を組織する体系的な倫理的実践が形成されていくのでありこれが資本主義の精神を意図せずして産み落としたのである。一六世紀に起こった宗教改革から時代が下るにしたがって宗教的心情は後退し、近代の孤立した経済人が発生したというのである。

 ここで私が着目したいのは、ウェーバーが歴史現象の「因果関係」において心理的起動力という観点から歴史的経過、宗教改革から資本主義の発展への経過、を辿ろうとしている点である。私なりに換言すれば、これは諸個人の意図(intention)から歴史的現象という一つの総体が導かれるということであろう。この場合の意図は救済を確信することであり、帰結するのは生活の組織化さらには資本主義の発展である。ウェーバーは一つの現象が無数の要因によって生まれ出ると考えており、その要因の一つとして諸個人の意図を考える。

 私はこの構図を、諸個人の意図、そこには知識や信念が含まれるが、に視点を定めて歴史の現象を説明した点で興味深いと考える。だが、不充分に思うのは諸個人の意図が社会において所与として存在しているかのごとき前提である。議論に即して具体的に言えば、プロテスタンティズムの勃興と浸透によって救済への不安と正しい行為による代補が自然な因果法則のようなものとして語られている、といった印象を与えることである。つまりウェーバーは社会の現実を心理的起動力によって解明するのだが、そのような心理的起動力はあたかも内在的に純粋なものとして与えられていると思われるのである。心理的起動力は、行為を導く意図と言い換えてよいと思うが、それはすでにして社会という文脈によって媒介されたものであろう。ここにおいて、いかにしてそのような意図が構築されていったのかというアプローチが可能になる。このことは何もマルクス主義的な資本家とプロレタリアートの対立としての上部構造と下部構造の議論に帰着させる必要はなく、社会構築(構成)主義によって展開を遂げたことと結びつくのであろう。

 

 

ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」

経済学科 3年 17020138 三上将利

 日本だけに限ったこととは言えないかも知れないが、ある程度富を持つようになった国においては、一般的な「消費」が時に異常な「消費」に変質するのではないだろうか。具体的に述べると、一般的な「消費」とは、自分の欲求や必要を満たすために消費することであって至極合理的な消費である。それに対して異常な「消費」とは、友人がより新しく性能の良い携帯電話を買った時に自分もそれにつられてより新しく性能の良い携帯電話を買う、といった無駄な消費や、ただ自分を他人よりも上だと見せたいがために高級なブランド服を買い込むといった非合理的な消費のことである。

この異常な「消費」が「シンボリックされた消費」とほぼ同意義であることが、今回の授業でわかった。以前から、高級なブランド物を外国の免税店で買い漁る日本人や、常に新しい機種を出し続ける家電業界に疑問を抱いていたので、このシンボリックされた消費という言葉を知ったとき、とても納得できた。

では、何故このようなシンボリックされた消費が生まれるのだろうか。その理由は、社会にモノが有り余る程存在することを前提として、その豊かな社会に差異が生じるからである。単純化すれば、他人よりももっと価値のあるものを、より高価なものを欲しがり、そのために他人と異なるモノを求めるということであろう。そのことが、ある程度進んだ消費社会に避けられない現象だとしても、何とも愚かしいことと思わざるを得ない。

衣食住が最低限満たされた後に、人々に余裕が出来て無駄なあるいは人が生きていくために必要な消費以外の消費が増大し、公害や環境問題が声高に叫ばれるようになって久しい。それは、ひとえに前述のようなシンボリックされた消費のせいではないだろうか。他人よりもより価値のあるものを求め今あるモノでは満足出来ず、新たな消費をすることが無駄な消費を生み、結果として公害や環境問題を生み出すのだ。

そもそも人が最低限とは言わないまでもほどほどの生活をおくるために必要な消費というのは、それほど多くを必要としないはずである。にもかかわらず、自らのエゴを充足させるために無駄な消費をすることは先ほども述べたように愚かとしかいいようがない。そのことは、一大学生の身でも充分理解できるのだから、世間の人々が理解していないはずはない。ということは、社会が、理解しつつも無駄な消費をやめられないという一種の悪循環に陥っているという結論になる。この悪循環を断ち切るためにはその原因をつきとめ、またそれに対する対処法を考えねばならないだろう。

まず原因ははっきりしている。授業でも触れられていたように、ある人々(主に商品を販売する人々) がその無駄な消費を奨励するだけでなく、一種の脅迫までして、一般の人々に消費を強制しているということだ。「異常な消費」の原因が、消費の「異常な促進」であることは、怒りに相当することであっても、驚きには値しないであろう。

では、その対処法はどうだろうか。常識的に考えると、消費を行う個々人が自らの欲求を最小限に抑えることが挙げられる。しかし、私はこの考えに賛同しない。「個々人のモラルに任せる」とは、よくこの手の社会問題(公共の場でのマナー違反・放置自転車の処理等)の対処法としていわれるが、私には政府の怠慢としか見えない。そもそもモラルが崩壊して社会問題が発生しているのだから、その後に「モラルに任せた」ところで問題が解決するはずもないのだ。したがって、無駄な消費によって公害や環境問題が発生していることに対しては、政府の法令で抑制することが必要と思われる。

 

 

経済思想「学問とは何か:ウェーバー」

経済学科3年 17020138 三上将利

今回の授業の中で、大学には2つのタイプがあることについて説明があった。その考え方においては、大学は「教師の大学」と「学生の大学」に分かれており、北海道大学は前者に当たる。

 「教師の大学」においては、主は教師であり研究であり、学生と教育は副である。このような大学では学生が自分で勉強するという前提があるので、教育には力を入れなくてもよいということだ。

 一見正しいように思えるが、しかし、私はこの考えに異議を唱えたい。というのも、毎年安くはない授業料を納めている以上、その対価として質の良い授業を受ける権利が、私達学生にはあるからだ。大学側からすれば、「北大卒という見返りを与えるのだから、授業の良し悪し等関係ない。嫌なら辞めればよい。」と考えているのだろうが、北大に入学した学生が全員そのような動機で北大を志望したはずがない。教師から、他では得られない知識を出来るだけ多く学び、自分を高めようと思い、北大を志望した人も相当数いることは疑い得ない。しかしながら、実際の授業を受けて落胆し大学に絶望した友人を、私は何人も知っている。また、仮にそのような教師主体の制度を容認するとして、教師の教育以外の仕事すなわち研究が社会に役立っているか、あるいは社会に高く評価されているのかということを考えてみると、私達学生にはとてもそうは思えない。つまり、研究においても結果を出していないと思われる教師が、教育にも力を入れていないという姿は、私達学生にとって、傲慢あるいは怠慢にしか見えないのである。

 上記のように述べると、現在の大学に改革が求められるのは、全て教師の責任だと聞こえるかも知れないが、実はそうではない。というのも、そこまで教師に高い水準の教育と研究を求める学生側に、はたしてそれに見合うだけのモチベーションと高い学力が備わっているかという疑問があるからだ。

 残念ながら、私達学生にそのような学力とモチベーションが備わっているとは到底思えない。30年あるいは40年前の北大生と比べると、現在の北大生など中学生にしか見えないであろう。

 このように、大学が現在改革を求められるようになった原因は、教師と学生の両方に帰せられる。つまり、両方の側が意識を変え向上していかなければ、本当の大学改革など成しえないということだ。具体的にいうと、大学改革云々と声高に唱える前に、まず教師と学生が互いに歩み寄り、互いを高める努力をしなければならないということになるのだろう。

 大学の独立行政法人化というきっかけを最大限に活かし、教師と学生の関係及び両者の「やる気」が向上することを、強く願う。

 

 

経済思想レポート マックスウェーバー「宗教社会学論選」

経済学科 3年 17020138 三上将利

 授業で触れられた、「死に対する意味づけの問題、信仰と戦いの関係」という箇所で、死の意味づけは政治権力によって行われるのであり、宗教は死の意味づけを無価値なこととしていた。

 今まで、私は宗教こそが死の意味づけを行っているものだと思っていただけに、政治が死の意味づけを行っているという今回の授業内容には少なからず驚いた。怪しげな新興宗教や自分の身の回りを見る限り、その宗教が崇める神を信じさえすれば、人間は死んでもあの世で救われるため、現世においてその宗教に対し貢献(死を含む)をしなければならないと言われている感がある。イスラム教を見ても一部の過激派だけではあるが、宗教指導者が自爆テロを容認し、神のために死ぬことを薦めさえしている。ここでは死の意味づけを宗教がしており、政治はあまり関係ないように思われる。しかし、前述のイスラム協に関連してアメリカを考えてみると、事態は変わる。というのもアメリカではブッシュ大統領を筆頭に政府が自分の都合でイラク戦争における戦死者を英雄視しているからだ。政府が戦死した兵士に対して「彼(彼女)はアメリカ合衆国のために死んだ」あるいは「イラクの民主化のために死んだ」というのは、まさに政治による死の意味づけといえるだろう。

繰り返しになるが、ウェーバーは戦争における死の意味づけを無価値だと述べた。しかしそれは本当に無価値なのだろうか。

私はウェーバーに賛成である。以下に理由を述べる。

まず、圧政から逃れるための戦争はともかく、それ以外の戦争に意味はない。人的資源と物的資源を浪費し、武器を作る人間だけが肥え太り、そして人々の間に憎しみと悲しみしか残さない戦争になど何の意味があるのだろうか。つまり戦争を行うこと自体愚かしいことでありまたしてはいけないのだ。そのおろかな戦争で人間が死ぬことも愚かとしかいいようがない。そこには死の意味づけなど無意味なのだ。

また、戦争に費やす費用の機会費用を考えてみる。戦争に費やす費用はその国によってことなるが、いずれにせよ多大な額であることは明らかである。その費用を社会福祉や公害対策に用いれば、人々の効用はより高くなるだろうし、またその費用を発展途上国の貧しい人たちに援助すればたくさんの命が救えるだろう。このように戦争に費やす費用の機会費用はとても大きなものであり、人的資源や物的資源を多く必要とする戦争という行為は、大変な無駄遣いである。つまり、そのような人的資源や物的資源の究極の無駄遣いにおいて死ぬこと、ひいては死の意味づけをすることは、全く意味のないことであり無価値である。

以上のような理由から私は死の意味づけは無価値であると考える。

また若干話はそれるが、戦争というものは全く意味のない行為であり忌むべきものである。いつか戦争というものがなくなり、戦争という言葉もなくなり、最後に戦争という観念もなくなる日が来ることを強く願う。

 

 

ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

経済学科 3年 17020138 三上将利

 今回の授業の初めに、「宗教改革が資本主義の精神すなわち功利主義を生み出した」ということについて触れられていたが、ウェーバーによるとそれには三つの理由が考えられる。まず一つ目には、少数者であり被支配者である集団の人々は政治上有力な地位からしめだされていく結果として、とりわけ営利生活の方向に向かうことになるのが常であり、彼らの内有能な者たちは政治活動で発揮することの出来ない名誉欲をこの方面で満たそうとするからである。また二つ目には、カトリシズムはより多く非現世的で禁欲的なために現世の財貨には無関心な態度を取るからという理由があり、そして最後の三つ目には、青年時代の禁欲的教育に対する反動として資本主義的企業化家が生まれたからという理由がある。

 これらの理由はどれも正しいように見えるが、どの意見にも反論がありまたそれらも一見正しい。しかし、私は一つ目の理由が一番正しいように思える。なぜならば、政治的地位と金銭的地位とはしばしば対立するものであり、どちらか一方が得られないとわかっているならば、もう一方を求めることは至極当然だからである。まれに両方を兼ね備えている人間もいるが、そのような人間は本当にごく一部である。人間全てが政治的地位か金銭的地位を希求しているとは言えないが、多くの人が名誉か金銭あるいはその両方を求めていることは明らかなので、このことも一つ目の理由が正しく思えるという根拠の裏付けとなるだろう。

 また授業の後半においては、「内心の苦悶を処理する」二つの方法について触れられていた。一つ目の方法としては、すべての疑惑を悪魔の誘惑として退ける、そうしたことを無条件に義務付けること、が挙げられる。二つ目の方法としては、そうした自己革新を獲得するためのもっとも優れた方法として、絶え間ない職業労働を厳しく教え込み、職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され救いの確信が得られるということが挙げられている。

 上記の二つの方法を要約すると、一つ目は自己確信であり、二つ目は厳しい労働である。ルター派によるとこの二つの行為、すなわち自己行為の如何によって神の恩恵が決まるということになる。

 このルター派の考えには私も賛成である。禁欲的にモラル・道徳・勤勉さを刷り込まれた社会においては、現代の日本における末期的な少年犯罪や、経済不況は起こりえないであろうからと思うからである。

現在、いわゆる先進国と呼ばれる国々において、享楽を得すぎている感がある。バクスターはそれを、休息することによって生じる怠惰や肉の欲、なかんずく聖潔な生活への努力から離れるような結果を生み出すという言葉で表現している。

たしかにこのことは先進国に住んでいる我々の耳に痛い。他の発展途上国には毎日懸命に労働しても充分な食料を買えないで飢餓で苦しんでいる人々がいる一方で、先進国に暮らす人々は毎日あまり労働せずとも車に乗り、捨てるほど大量の食料を食べ、そして娯楽のために金銭を費やす。

このような状況を改善するためにも、ウェーバーやルター、そしてバクスターの考えをもう一度再考する時期に来ているのではないだろうか。

 

 

黒井若菜17010114

 大学改革に関する先生の提案を聞き、最初に思ったのは「スウェーデンにおける教育制度と共通点が多い」という事である。近年、スウェーデンの福祉制度は崩壊したなどと言われているが、教育に関しては未だに成功していると私は断言できる。昨年一年間に及ぶスウェーデン留学、そこから学んだ、これからの日本の大学革命に必要な事柄について述べていこうと思う。

 スウェーデンでは高校卒業と同時に大学に進学する人は少ない。1~3年休暇を取り、語学の勉強・旅行・アルバイトなどをするのが主流である。その後「そろそろ勉強したくなって」大学に入学する人が多いと聞く。また、在学中も好きなだけ休暇が取れる。その為、学生の年齢は様々で、27歳でまだ学生と言う事は大いに有り得る。学生の勉強意識も日本と全く違う。授業は少人数制で討論やプレゼンテーションが多数を占め、卒業単位・成績も就職に関係してくる。その為、皆必死に勉強しているのだ。一方日本の大学では、大講堂の授業、プレゼン・討論なし(その意味で橋本先生の授業は討論形式で非常に面白い)、成績関係なし。よって、まず日本の大学にはこれらの改善が必要であると言える。一方、スウェーデンの大学にはリベラルアーツが存在しない。一年目から専門科目を学ぶのだ(というのも途中で学部を変えることが簡単な為である)。これに対し、私は先生が主張していた「多機能教育空間」に賛成で、大学12年は自分の可能性を広げると言う意味で一般教養を学び、専門はその後2年間で十分だと思う(もっとやりたい人は大学院に進学すれば良い)。授業の外注化について先生は「予備校の先生を雇うなど」と言っていたが、それには反対させて頂く(それなら大学に来る意味はなく、予備校で十分である)。予備校教師は高給取りで有名で、もし彼らを雇うのならば膨大な金が必要になる。それよりも無料で企業の重役など将来的に役立つ方々に講演して頂くほうが賢い。授業科目の半減にも反対で、むしろ授業科目を増やし一クラス当たりの生徒を減らすことで、教官と学生の間を狭める必要があると思う。そうすれば指導する側にしても学ぶ側にしてもより深い繋がりを持てて良いだろう。ゼミ改革には賛成で、色々なゼミで学べば知識の幅も広まると思う。しかし、現在の日本社会において私も(授業中に誰かが主張していたように)スペシャリストのほうが需要が高いように感じる。スペシャリスト同士が助け合うほうがゼネラリストを沢山作るよりも仕事上効率的だろう。「ゼネラリスト=あらゆる方面で完璧な知識を持つ集団」を育てようとするならばスペシャリストを何人も養成する方が早いし、「ゼネラリスト=同じ知識を持つ集団」であれば彼らを育てる必要が取り立ててないように思う。

 大学教員について、教えるのが下手な人が多いのは事実だ。ただ、彼らは元々学生に何かを教えたくて教員になったのではなく(そういう人は小中高の教員になるだろう)、何かを研究したくて大学に残っている場合が多い。よって、彼らに分かり易い授業を求めるのは無駄なことだと言える。また、先にも述べたように、授業が少人数制になれば、教えるのが上手でなくとも教員・学生の間でコミュニケーションが取れ、教え方もそこから学べると思う。いちいち学生が教員を評価していては、教え方が下手でもいい研究者である教員が辞めざるを得ない状況も増えるだろう。そうなれば大学教員が減るだけでなく、日本社会に貢献する人も減ると言える。そういう意味で、学生の教員評価は必要のないものだと考えられる。

 ところで、スウェーデンと言えば30歳以下の殆ど全ての人が英語を話せることで有名だ。8歳から英語教育が始まり、テレビも英語圏から輸入して字幕付きで放映している。また、英語以外の語学学習も中学から始まり、大学では教科書は英語のものが大半、レポートも英語で提出するものが多い。その背景にはスウェーデン語がマイナーで、且つスウェーデンが小国であることが挙げられるのだが、現代のグローバル化の世の中で語学が重要な役割を果たしているというのは暗黙の了解であろう。そこで私が提案したいのは「語学プログラムの充実」である。これは何も大学だけに限ることではなく、小学校から英語はもちろん、第三外国語の指導も高校くらいから取り入れるべきである。もちろん語学だけ強くてもある特定の分野における専門知識がなければあまり意味はなく、反対に、語学も出来て専門知識も備える人材が増えれば、今後経済発展に貢献してくれるだろう。

 また、授業料に関して、優秀な生徒に対する奨学金制度は良い事だと思う。その内容としては、年間奨学生とは別に、毎月(又は3カ月おきに)学部毎に希望者を集ってテストを行い(学部毎の総合問題)、その中の上位何名かを授業料免除にするというものを提案したい。年間授業料も毎月(又は3カ月おきに)口座から引き落とし、奨学生の分は引き落とさない。そうすることで年間授業料をまとめて払う必要がなくなり、親の援助に頼らず、自分の財力で大学に行くことも可能になる。日本での大学進学において親を一番悩ませるのは学費であり、「学生自身で払える」環境を作ることが必要だと思う。ちなみにスウェーデンでは学生ローンが充実しており、大学進学と同時に親元を離れ、親の援助を全く受けない人が多い。また、授業料が一切無料な為、学費で困る必要がない。その理由には21~25%にものぼる税金が挙げられるのだが、教育に多大な税金を投資しているスウェーデンは、将来的に優秀な研究者・労働者を生み易いという点で成功している。日本はただでさえ少子化時代に突入しているのに、「養育費が莫大にかかる」という理由で子どもを生まない(生めない)女性が多い。学費を無料にする必要はないが、政府はせめて子育てを支援する為にもっと税金を使うべきである。その為なら税金を高くするのも止むを得ないと私は思う。増税に反対する人も多いだろうが、「税金が高くなったのは教育投資のため⇒その恩恵を受けなければ損である⇒子どもを生もう」と考えることが可能ではないだろうか。これからの日本経済を支えていく子どもたちを増やさなければ、日本の経済が破綻するのは目に見えている。

 以上、日本の経済発展を見据えた、私の大学改革(広く教育改革)の主張をまとめてみよう。@大学進学前の猶予期間、A授業内容の変更(開講科目増、少人数制、個人の意見を述べる機会を多く作る、リベラルアーツの充実、会社重役などの講演、ゼミ移動の自由)、B語学教育の充実、C授業料の毎月支払い、奨学金・学生ローンの充実、D増税(教育投資のお金を増やし、少子化防止)の5点が挙げられる。今すぐの変更は無理であろうが、10年、20年先を見越しての政策である。これからの時代、大学生活がより素晴らしくなり、日本経済が好景気に向っていくことを願って止まない。

 

 

経済思想レポート ヴェブレン『有閑階級の理論』

経営学科 4年 高井ゼミ所属 17010114 黒井 若奈

「有閑階級」とは、労働に従事せず、顕示的閑暇や顕示的消費を楽しむ階級を示す。いわゆる上流階級のことである。彼らは有閑階級であるがゆえ、審美眼を持っていることを前提とされる。彼らはその審美眼を養うために精励する。また、名声という点では、有閑階級が社会的秩序構造の頂点に立っている。よって、彼らに与えられた職務は、最高かつ理想的な形で社会的救済の図式を説明することである。この階級分化が進むに従って、閑暇よりも消費のほうが評価され始める。顕示的消費の出現である。「見せびらかしの消費」は、名声を得る為には「浪費的」でなければならなかった。最終的にヴェブレンは、有閑階級制度について、有閑階級は下層階級を保守的にし、文化的発展をも阻害するもの、とした。

 私が今回の授業で注目したのは、日本における有閑階級の存在である。事実上、イギリスなどに見られる階級差というのものは、日本において存在しないものだと考えられる。しかし、人から尊敬して見られたい、という気持ちは誰もが持ち、それが日本人特有のブランド製品に対する意識とつながっているように思える。ルイ・ヴィトン(以下ヴィトン)を例に取ると、世界の販売個数の3分の1は日本による売上げである。また、海外で日本人が買う数も考えると、世界のヴィトンの半分以上は日本人によって所持されているということになる。なぜここまで日本人がヴィトンを愛するのか。実際、それは商品の質というよりも、そのブランドがまわりに与える影響力によるのではないか、と私は思う。というのも、「ヴィトン製品を持てば大人の仲間入り・金持ちの象徴」などという暗黙の意識が日本人の中に存在し、ヴィトンをファッションの中に取り入れるというよりも、不釣合いでも取りあえず持っているという人が多い。しかし、欧米諸国では、若者はブランド製品を持たない。その理由は、ブランド製品を持つにはまだ早く、社会人などれっきとした大人になってからでなければ、そういうものは自分に似合わない、というのを知っているのである。日本では、若い人はもちろん、近年では子どもですら持っていることもある。階級差だけでなく、年齢の階層差というのも日本には存在しないため、このような結果になったと思われる。日本でブランド製品が人気を博しているのは、日本に有閑階級というものが存在しなかったことに原因があった、と言える状況にあるのではないだろうか。

 今後世界において「顕示的消費」がなくなることはないといえる。反対に、もしこれがなくなった場合、現在のマーケティング戦略で大半を占めているブランド戦略が何の意味も持たないものになっていってしまうからだ。ブランド価値があるからこそ、人々はその商品を買い、また、それを持っている人を羨み、自分もいつか持てるように頑張って働くのである。日本には有閑階級がないからこそ、他人からうらやましがられる存在になることが、どんなひとにとっても可能なのだ。だからこそ、ブランド製品が売れる国として成り立っているのである。ヴェブレンが掲示した「顕示的消費」は、それが生まれた100年前も、現在も、そしてこれからも、変わらず存在していくものなのである。

 

 

経済思想レポート ハンナ・アレント『人間の条件』

経営学科4年 高井ゼミ所属 17010114 黒井 若奈

 本書において、ハンナ・アレントは、人間の活動的生活を労働仕事活動の三つに分類している。労働は、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。労働の成果は、消費の対象である。生産されるとすぐに消費され、その姿を消すことによって人間の生命が維持される。労働の人間的な条件は生命それ自体である。仕事は、人間存在の非自然性に対応する活動力である。これは生命を超えて永続する。仕事の人間的な条件は世界性である。活動は、人間が物を介在させずに他の人間とかかわる唯一の活動力である。人間を人間たらしめるものであり、活動の人間的な条件は、多数性である。古代ギリシアにおいては、政治は「公的領域」において「活動」および言論によって行われていた。しかし、ポリスの崩壊によってそうした「公的領域」の衰退が始まり、「公的領域」と「私的領域」の原理的な区別を解消した「社会的領域」が成長し始めた。そして、「労働」が「活動」と「仕事」よりはるかに優越するようになったのである。マルクスはこの「労働」の重要性を説いたが、それに対しアレントは、「【共通世界】とは、私たちが生まれるときにこそそこに入り、死ぬ時にこそそこを去るところのもの。このような共通世界は、ただそれが公的に現れている限りでのみ、世代の流れを超えて生き続けることが出来る。」と「公的領域」の必要性を述べた。すなわち、いかにして「活動」を再構築すべきか、ということに焦点を当てたのである。

一口に「労働」というと、マルクスの考えでは、人間にとって不可欠なものを表す。しかし、アレントはこれを、「生きる手段としての労働」と、「生きる意味としての仕事」とに分類した。ここに彼女の功績が見られる。そして、これは前回のウェーバーとつながりがあるように思える。現代、世界(とりわけ日本)では、人々は生きていくために労働に集中せざるを得ず、余暇を楽しんで過ごすことができない社会になっている。そんな時代だからこそ、アレントが重点をおいた「活動」の再構築が意味を持つようになった。例えば、「仕事を趣味と兼ねてしまっては、余暇の楽しみがなくなる」という言葉をよく聞くように、仕事の外にも何か楽しみを持つことで、苦痛から逃れることができる。「生きがい」を持つことが、人々に生きる力を与えるのである。しかし、生きがいを持つことは、勤勉な人が多い日本では正直難しいことかもしれない。昔から日本と欧米の労働時間にはかなりの差がある。日本では、社会人が1週間の夏休みを取ることは非常に難しい。それとは対照的に、欧米では一ヶ月の夏休みが与えられる。もし同じことが日本でも起こった場合、その休みを有意義に過ごせる人はどれくらいいるのだろうか。働くことで自分の存在価値を見出している人は、きっとその休みを無駄にすることしかできないであろう。人間が人間として生きていく上で大切な条件は、余暇を大事に扱うこと。ハンナ・アレントはこの意味を私に再確認させてくれた。私は無味乾燥な人生を送りたくない。そういう意味で、社会人になった時には、労働・仕事・活動を区分し、活動に重点をおいた生活を送りたい。

 

 

5月25日(火)提出 経営学科3年 17020127  西舘隼太

「先行き不安―何年経っても原理は変わらないのであろうか―」

 マルクスの「経済学・哲学草稿」における労賃の部分を読んで、今日の社会では、自分のような大学生にとっては、常日頃から痛感することは無いのだが、労働者の苦しみのメカニズムが書かれており、改めて資本化が強い力を握っていることを認識した。

 特に印象的だったのは、「労働〈者〉は、資本家が儲けるさいには、必然的に儲けるとは限らないが、しかし資本家が損をするさいには、必然的に損をする。」「さらにまた、労働の価格は生活資料の価格よりもはるかに不変である。」(19)の部分であった。あくまでも、労働者個々人というのは使用される身であって、受け身であり、経営が上手くいかない時には、すぐさまあおりを受けてしまう立場である。

今日の企業であったとしても、仮に経常利益が前年の2倍になったとしても、給料が2倍になるという事態はなかなか発生しないだろうけれども、経常利益が前年の半分以下になった場合は、それまでの数の労働者を抱えることができなくなり、否応なく労働者をリ・ストラクチャリングという名の下に解雇されてしまう現状があるだろう。特に、中小企業ではそれが顕著に表れるであろう。資本家と労働者という関係からは、やや異なるであろうが、大企業からの受注に業績を依存している中小企業は、大企業から見ての労働者という構図になるであろう。そのようなことを考えていくと、近い将来に迫った就職を考えた時に、受け身の立場になってしまうような中小企業に積極的にアプローチする気持ちは小さくなるように感じる。やはり、ある程度の安定を求めているように感じる。若いうちは、自分の力によって道を切り拓いていけるだけのパワーもあるかもしれないと思えるのではあるが、二十年後にそれが可能かと問われても、自信を持って頷くことはできない。安定という面で更に言えば、名前の通った、過去に実績のある企業に目が行くのも事実である。企業の寿命は三十年なんていう話もあるが、今ないものが将来存在するという想定をするよりかは、当然、今存在するものが将来なくなることを想定する方が断然難しい。

そうした部分だけをとって考えていくと、共産主義的な社会というのも、もしかしたら悪くないのかもしれないと感じるのである。何年か前には、日本の古い体質であると言われる年功序列や終身雇用というのが、諸外国と比較して非難されたこともあったと思うのではあるが、近年その長所が積極的に見直されているという話をよく聞く。実際に、自分が高校生ぐらいの頃は、大した立派な仕事をしないような年寄りが、ただ単にその組織に長く居座っているという理由が大部分を占めて、高い地位に昇り、高い給料をもらっているという事例に対して強い拒絶感を持ち、そして、そうした制度とは真逆の完全実力成果主義システムを全ての組織が導入し、競争を促進することを行えば、不景気なんていう問題も改善されるもののように感じたものであった。

しかし、自分が大学で経済学を学び、就職という世界に近づくに連れ、もしかしたら実力主義の失敗例などを知ったことも一因となっているのかもしれないが、極端な差が生まれないことが、平和を保つ術なのではないかとも感じたりもする。比較的目に付きやすいお金や、地位といった部分でのギャップが大きいと、何かしらの歪が生じてしまうように思う。我々は人間である以上、自分にないものを持っている人に対して嫉妬をしたり、ひがんだりするものであろう。教育や経済力に差があると、良くないことが起こり得ることは想像に難くない。近頃問題になっている年金問題についても、義務というのを徹底するべきだと感じる。当然、制度の整備は急務となる。というのも、先に述べたものにも関連するのであるが、将来的に年金がもらえない人が大量に発生した時に、その人間達が老後の貯蓄を十分にしていなかったとすると、究極的には、生か死かの領域で路頭に迷う人間もたくさん現れ、今日失われつつある日本の治安の良さも失われていってしまうであろうと推測する。

日本人の国民性を考えた時に、また、今日までの日本経済の発展を考えた時に、みんなで仲良く歩調を合わせて前に進んでいくような形式は、適度であればとても上手く働くように感じる。勤勉で賢いと自分は考える日本国民は、和を大切にし、協力して助け合うという能力を潜在的に秘めているようにも感じる。日本人というのは、他の民族に比べて、ホスピタリティー精神の強い、思いやりのある集団であると希望を持っているし、持ち続けたい。

 

 

6月11日(金)提出 経営学科3年 17020127  西舘隼太

「公的領域と私的領域」

 この題目を見た時、まず純粋に感じたのが「自分がいかに人間としての条件を満たしていないかを考えさせられるのであろうか。」と、やや不安に思ったものであったが、一応、杞憂に終わって安心したものであった。

 人間として、「いかに働くか?」という部分に関して、公的領域と私的領域の対比は、今日との比較で見てみると興味深いものであった。第二章の【自由】で記述されていた「生活の必要(必然)あるいは他人の命令に従属しないことに加え、自分を命令する立場に置かないという二つのことを意味し、支配もしないし支配されもしないということ」「人間の自由とは、自分を必要(必然)から解放しようとする決して成功することのない企ての中で獲得されるもの」という部分については、「自分を命令する立場に置かない」というのに最初は違和感を覚えたのではあるが、両者とも納得のできるものであった。しかし、もっとも不思議な感覚を持ったのは、ポリスと家が公的領域と私的領域の関係になっているのではあるが、自由とは、私的領域である家と関わりを持たないことであるという部分であった。私的領域がdeprived状態を意味しているのと同様に、不思議な感覚を覚えた。

 自分の生活にあてはめてみた時、やはり、自由は私的領域に於いて出現することが多いように感じる。いったんポリスに出て行き、公的な場所に身を放てば、社会のルールやモラルといったものが自分を縛りつけ(それほど苦痛ではないが)、家の中にいる時よりも、範囲の限定された行動になっているように思う。家の中にいるときであれば、裸でチョロチョロ歩いていることなど問題にはならないが、外に出ればそうもいかない。また、家の中でだらしなく寝グセのついた頭で過ごしていようと気にしなければ問題ないが、外に出ると、周囲の目もあるため、平気ではない。こうした事例は、たいした自由ではないと思われるのではあるが、家の中と外(ここでは、社会全体)とで何か決めなければならないことがあった時に、価値観の数が少なく、ある種の偏りを含むという面も考慮すると、やはり、私的領域の方が自由が利くと思うのである。どれだけ自分が家のことに携わっていないかということを、示すに終わってしまっている気もするのではあるが、自分同様に多くの現代人が私的領域により自由を感じるとするのであれば、当時の家が、とても長い期間にわたって厳しい縛りをもっていて、そこから解き放たれるポリスという空間が自由の現れとなっていたのか、それとも今日の社会におけるポリスがあまりに自由とは程遠い空間であるかのように感じる。あくまでも、理由があるとするならば、内ではなく外にあると自分は考える。やはり、時代は流れても、家というのは限りなく不変なものであるように考えることに拠るであろう。

 そして、公的という部分で印象的であったのは、「善の無世界性」であった。イエス=キリストによる善の姿勢は、(自分を含め、少なくとも自分の知る範囲の人間たちにとっては)

理想的であることは仮に理解できたとしても、(自分は理想的だと考える)、それを積極的に実行に移すというのは、損をしている気分になるであろうことであり、困難なのではないだろうかと率直に感じた。「善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためのみになされるという善の特殊な性格を失う」という部分に、自分は強い共感を覚えるのである。実際に生きてきて感じるのであるが、こうした善行をしていたとしても実際はあまり良いことが無く、案外、ことさらに(しっかりと、さりげなさをアピールしつつ)善行したことを公言するくらいのしたたかな人間が、善い人間だと評価され、社会の中で生活していくのに良い循環をもたらしているように思う。なんとも、はかないものである。

こうした思考から脱するためには、自分以外の他人ではなく、神(恐らく、実際の所は自分の良心、悪く言えば自己満足)を信じる以外に方法は無いのであろうとも思う。

 

 

6月25日(火)提出 経営学科3年 17020127  西舘隼太

「豊かな社会と言えるだろうか」

 「今日の日本が豊かであるか」という問いに対しては、多くの人間が、物質的には豊かになったけれども、精神的には豊かさを失ってしまったのではないか、という返答をするように思う。第二次世界大戦を経験し、それによってボロボロになった日本が、先進欧米諸国の模倣、そして改善により、高度経済成長を遂げ、現在では世界で一、二を争う先進国へと成長した。しかし、そうした飛躍的な成長と引き換えに、日本人が元来大切にしてきたはずの、“良い心”を失ってしまったのではないだろうかという話である。

講義で扱われたジャン・ポードリヤール『消費社会の神話と構造』の内容というのは、これまでの自分には無い視点であったので、興味深いものが多かったように思う。まずは、【モノの意味の変化】の所で、講義中の説明にもあったのだが、「……他のモノとはまったく無関係に、それだけで提供されるモノは今日ではほとんどない。(中略)洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機などは、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。」とあり、Tシャツの場合、カラーやデザインといった本来のTシャツを買う目的からはずれる部分に消費者は価値を見出しているということについて、強い共感を持った。特に、ファッションに関しては、飾り気のないただの布切れを着ているような人は、今日ではいないだろうし、少なくとも大学内で出会うようなことはない。体に服を着させるということは、今日の日本では、至極当然であり困難の無いことと見なされており、むしろ、いかに個性を生かすような素敵な服を着こなすことができるかに焦点が当てられているようにも感じる。

同様に、ブランド物に関してはその性質がさらに顕著に表れるであろう。実際に、今日、街中に広く普及している有名ブランドの商品などは、道具としての意味を第一に考える人などほとんどいないであろうし、そうした商品を製造するのに必要とされる原価については、あのお高い値段のうちのほんの数割でしかないようである。極端かもしれないが、物を運ぶバックの替わりは、丈夫な紙袋で良いだろうし、また、お金を入れておく財布の替わりは、もしかしたら小学校の時に家庭科の時間に作った布の財布でも良いのかもしれない。高校生が普通にルイ・ヴイトンの財布を持ち歩いていたりするのは、また異様な光景であるように思える。「それ買う金はどこから出てきたんだ?」と、多くの人が疑念を抱いていることであろう。

また、商品に余計な機能ばかりが付いているという話があったが、豊かな日本であるから、新しいものを好む日本であるから、あんなにも早いサイクルで家電製品の新商品が店頭に並び、そして特別必要に迫られることの無いような付加サービスに目を奪われて次から次へと買い替えていくのであろうか。自分の家も、そうした傾向が無いわけではないと思う。ビデオが壊れたこともあったのだが、先日も、HDD&DVDレコーダーなんたるものを買ってきていた。確かに、その機能は素晴らしそうだ。でも・・・本当に必要なのだろうかと思ってしまうのである。いっそのこと、同業者同士で協定を結び、新製品の発表を今よりも少ない頻度にすれば、解決するのではないかと一瞬思ったのだが、そのようにしてしまうと、日本国内では問題なかったとしても、国際競争力を確実に失ってしまうのではないだろうかと思う。消費者が、買わなければ済むのだろうが、そんなことないのが日本の特徴であろうか。

今回、最も違和感を覚えたのが、「豊かさ=浪費」という部分であった。

「豊かさが一つの価値となるためには、十分な豊かさではなくてあり余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分との間の重要な差異が維持されなければならない。これがあらゆるレベルでの浪費の機能である。浪費を解消したり取り除いたりできると思うのは、幻想にすぎない。」(42)とあったが、どうも自分のような、貧しい?大学生にはその感覚がよくわからないのである。

 実際に、十分な豊かさを手に入れていないから、その感覚が分からないだけなのかもしれないのだが、ムダ使いをすることが豊かさには到底結びつかないように感じるのである。

もし仮に、自分が今現在、月に数百万円のお金を自由に使えたとした時に、当然それなりに使用するではあろうが、ムダと思われるような使い方はあまり考えないと思うのである。マイケル・ジャクソンなどの大金持ちが、店に買い物に行き、棚を指差し、「ここからここまで全部」なんていう買い物をすることもあるようだが、そうした浪費(こういうのは浪費と呼べるであろう)が、豊かさとイコールになっているとは思えないのである。

 確かに、普段使わない勢いで、一回に五千円を超えるような食事をしたりした時には、ちょっとした浪費?感を覚えて、すっきりした気分にならないでもないのだが、あくまで贅沢をしたのであって、浪費をしたとは思わないのである。やはり、自分が金持ちになって浪費を体現して初めて、その心がわかるのであろうかとも思う。

 また、印象的に感じたのは、「……。今日、生産されるモノはその使用価値や達成可能な持続性のために生産されるのではなくて、反対に価格のインフレ的上昇と同じ程度のスピードで早められるモノの死滅のために生産される。……。」(44-45)の部分であった。感じるのは、消費者が本当に必要なものを買っていると言うよりは、宣伝などの流れに乗せられて、社会から遅れをとることを忌み嫌い、深慮せずに購入しているように思う。それというのは、生きていく上でどうしても必要なモノ(食料など)はもう既に十分買えていて、生活必需品と呼ばれるモノも揃っていて、更に上質なモノを目指しているように思うのである。不要な機能でも、やはりついていると気分が良いのであろうか。

 人間は、欲求が常に満たされることのない生き物であろう。そうならば、いつまでいっても満足することなく、あればあっただけお金を使い、自由気ままな生活を送るのであろうか。上をみればキリがないが、もう少し日本人は下を見る努力をするべきかもしれないと思う。食欲が満たされないような生活があったとするならば、自分にとっては耐え難いものであるだろう。

 

 

6月29日(火)提出 経営学科3年 17020127  西舘隼太

 「貧乏くさい暮らしをしていないだろうか」

 講義プリントの中にあった川上卓也『貧乏真髄』(2002)を読んで、自分が貧乏くさい生活をしていないだろうかという反省を試みようと思う。貧乏くさくない貧乏というのが印象的であり、講義で、フリーターの理想という話だったので興味を持った。

 「貧乏くさい人々のいちばん大きな特徴と言えば、個性を消費で作ろうとすることなのです。流行の服を身にまとったり、ブランドに過剰な反応を示し、それを手に入れ、身につけて歩いている自分に満足してしまう人なんていうのは、まさにこれに当てはまります。」(216)という部分について、強い共感を覚えた。“個”が強調されるように近年なっているように感じるが、上にもあるように、個性を消費によって作ろうとしているように思う。渋谷などの流行の最先端と呼ばれるようなところで生み出された、作りだされた流れというのが、そこからどんどん日本中に拡がっていく。その流行の最先端で人気があるとされるものが、雑誌記事などで紹介され、それを見た読者は、追随しようとする。個性的というのを売りにしているのだろうが、ファッションなどは間違いなくそうであろうが、実際の所は没個性になってしまっているようである。マス媒体に取り上げられた時点で、想像以上に多くの人間がそれを目にして認識しているはずで、個性とはかけ離れてしまうように思う。個人的には、そうやって取り上げられたものに興味を持ち、欲しいと思うことは問題ないと思うが、それが個性的だと思いたかったとしても、無理があるであろうことを今回、再認識した。

 個性的でないものの象徴として、学生時代の制服というのが挙げられるであろう。男女の差はあるにせよ、皆が同じ服装をして、毎日同じ場所に集まることとなる。顔、もしかしたら体型くらいでしか、人を見分ける術を持たないのである。そうした環境の中で、メチャクチャな個性を打ち出す人もいるのではあるが、そうした個性というのも、本当の個性であるようには思えないのである。決して、人と異なることをするのが個性なんかではなく、内面からあふれ出てくるその人独特のユニークさというのが個性と呼ばれるべきであろう。

 「すなわち、消費は生きるために必要な最低限の衣食住にとどめることで、消失してしまう力も最小限にとどめることができるのです。残った力は、分散させるのではなく、一点に集中して放つ。貧乏とは、財力だけでなく、自分の持てるすべての力を、定められた方向へ集束させるための術なのです。」という部分があったが、特に「自分の持てるすべての力を、定められた方向へ集束させるための術なのです。」というのには共感を持った。人間、たくさんのものが見えてきてしまうと、目移りしてしまい、そして何もかもをやらなければという状態になってしまうと、結局の所、すべてが中途半端に終わってしまうような経験を今までに何度もしたことがあるように思う。自分で、必要なものとそうでないものをしっかりと選択し、自分の資源を適切に配分することができれば、選択肢が多く用意されていること自体はまったく問題にはならないだろうが、その資源の配分というのがとても難しいと思うのである。その時々に最適と思われるような資源配分を決定すること自体がコストとなってしまうのである。そうした時に、貧乏であれば、定められた方向へ資源を集束させることができるであろう。あるものをすべて使って、全力で取り組むことができると良い結果が出ると思う。実際、高度に成熟した社会では、より多くの事象に頭を悩まされることが多いように感じるのだが、それというのは、もしかしたら贅沢な悩みなのかもしれない。

 自分が「貧乏くさい生活をしているか。」という問に対しては、「そうかもしれない。」というのが正直な所であろう。毎日、大学には欠かさず通い、講義に参加する。単位をとるために勉強もする。そうした最低限のことをしているのかもしれないが、それ以上の何か大切なものが欠けていて、中途半端な生活を送っているような感もあり、貧乏くさい生活をしているような気もする。自由な時間、自由な心、考える力、創造する力というのを十分に発揮していないようにも思えてくるのである。もっともっと、将来についてしっかり考えることが必要であろう。そして、学問に限らずとも、何かの事象についてしっかり自分の頭を使うことを今後やっていこうと思う。貧乏くさくならないように・・・。